2009年1月9日金曜日

現地調査の思い出

 -気持ちも心臓もドキドキ-
 高解像度で多時期,多バンドの衛星データが入手できるようになった近年でも,現地調査でなければ確かめられないことは多く,そこで獲得する各種データは貴重である.現地を見ないことには氷河湖のタイプ分けもできないし,モレーンの構成物が岩屑や砂礫だけなのかそれとも氷体が含まれるのか,といったことも検討できない.いっぽう,現地では日常とはかなりかけ離れたできごとや景色,味,苦痛を経験することができる.そして,現地でのこういったドキドキ(標高が高いので実際に心臓もドキドキである)が,筆者を含めたフィールド屋の研究へのモティベーションになっていると私は思う.そこで,残りのページではこれまでの現地調査での印象的なできごとを紹介したい.

・11人のスタッフ
 ネパール東部のヒンク,ホング谷の調査の時である.予算と日程の都合から一人での現地調査となった.ネパールでの調査では登山隊と同じく現地でシェルパを雇うことになる(ヒマラヤでもブータンやチベットではこのシステムはない).

 出発当日,驚いたことにスタッフが11人集まった.自分一人にこの人数.しかもほとんどが英語を話せない.最初は戸惑ったが,まじめで明るく力持ちの彼らをすぐに信頼でき,そして少々無理して彼らと打ち解けた.というのは,その先二週間はほとんど人のいない谷を,自分一人と11人の現地人,しかも飄々とズック靴で氷河を越え,標高5000mでも駆け出せる心肺機能の持ち主たちと歩くのだ.途中で裏切られて置き去りにでもされたら悲惨である.ここは何が何でも早めに信頼関係を結び,互いに打ち解ける必要があったのである.

 その甲斐もあって,息を呑むような景色が繰り返される毎日を,スタッフ8人と仲の良い家族のように過ごすことができた.そう,11人ではなくて8人で.実は11人のうち3人はあまりにも働かないので,一悶着の末に途中でクビにしたのだ.

 いずれにしてもこのクビの一件と,途中で二体の白骨死体と遭遇したこと,高山病で顔が風船のように腫れていたこと(後半に鏡で見るまで知らなかった),トイレットペーパーが早い時点で尽きたこと,地元のテロリストに寄付と称してお金を脅し取られたことを除けば平和で夢のような三週間であった.

氷河湖とはなにか

氷河湖とはなにか (某啓発書 原稿 ver.0)
 氷河湖という言葉を巷でも目にすることが多くなった.インターネットで「glacial lake」と「氷河湖」という言葉を検索するとそれぞれ数十万と数万のヒット件数が出る.しかし,氷河湖に関する記述(特に日本語)をテレビやインターネットで見ると,偏見や誤解が多い.その原因として,研究者から社会への説明が全く不足していることが考えられる.氷河湖に関する筆者の研究は,湖が過去から現在までどのように形成され,将来それがどう変化して,我々はどのように対応すべきかを明らかにすることであるが,同時にその成果は社会に示される必要を強く感じている.そこでここでは,氷河湖の定義,分類,分布域,および拡大傾向について筆者の研究成果も含めて概説したい.

 氷河湖とは,天然ダム(*)の一種で,氷河作用にともなって成立した凹地が水域となったものである.ここで言う氷河作用とは,氷河の分布域の変化や氷河による地盤の浸食のことで,このうちの分布域の変化とは単に氷河の水平方向の変化だけではなく,氷河の表面の沈降や底面の上昇といった垂直方向の変化も含む.氷河湖のタイプは既存の研究によっていくつかに分類されているが,筆者は湖盆(湖水をためる器)の成因に着目して次のような分類を考えている.

・モレーン堰き止め型:
氷河自らが形成したモレーンがダム湖の堤体の役割をはたし,そのモレーンの内側に水域ができている湖(moraine-dammed lake.写真1).モレーンとは,氷河の流動にともなって移動し,氷河の末端や側面に堆積した砕屑物からなる尾根状の高まりのことで,このタイプの湖の場合はターミナル・モレーン(端堆石)とラテラル・モレーン(側堆石)が堤体となる.

写真1





・遮断型:
氷河もしくはそれによって作られたモレーンが,隣の流域から合流している谷を出口で遮断することで湖盆が成立した湖(ice dammed lake, blocking lake.写真2).当然ながら,堰き止められた水流と堰き止めた氷河が起源を異にする場合が多く,遮断される流域が遮断する流域に対して支谷である場合(写真2はこのタイプ)とその逆の場合がある(白岩,1997).湖が形成される場所は氷河の側面やラテラル・モレーンの外側にあたる.

写真2


・表面収縮型:
氷河の融解にともなう氷体上面の不均一な沈降によって,できた凹地に融氷水が堪水した湖(supra glacial lake, supra glacial pond).山岳氷河のうち特に岩屑に被覆された氷河にできる小型のもの(写真3)と,グリーンランドやロシアのノバヤ・ゼムリヤのような氷床の表面にできるもの(glacial melt pond)がある.また,地熱等の影響で氷河の底面が上昇してできた空間に氷河湖が形成される場合もある.

写真3




・氷食型:
地盤が氷河によって削り込まれてできた凹地が湖盆となった湖(glacial erosion lake).山岳内にできたものと,平野部にできたものがある.前者は圏谷(カール.写真4)や谷底にできた湖で山岳氷河の浸食作用によってできた氷食湖.後者はレマン湖や五大湖といった湖で,その湖盆は最終氷期(約1万年より前まで続いた氷河期)に大きく発達した氷河による浸食によって形成された.

写真4






天然ダム*:ここ数年,日本の行政やマスコミでは天然ダムという言葉の使用を避けて,代わりに河道閉塞や土砂ダム等の言葉を用いている.災害につながる可能性をもつ水域のイメージに「天然」という単語がもつ語感が相応しくない,というのが理由の一つらしい.しかし,天然という言葉が人間にとって常にプラスである必要は必ずしもない.しかも,代わりの言葉が乱立し統一できず,むしろ混乱をきたしている.「天然」という語感が災害に結びつかないという誤解にどうしても配慮する必要があるならば,せめて「堰き止め湖」という言葉を用いることを提案したい.古くから用いられており,複雑かつ多様な形成原因と堤体の特性に対して広く適用できる言葉である.



写真1 ネパール東部ホング谷源頭部(パンチポカリ)の氷河湖
二つのモレーン堰き止め型の氷河湖が写る.湖の長径は右側が500m,左側が1400m.左の湖の右岸には遮断型の湖も形成されている.写真左奥はチャムラン峰(7319m).2005年10月にアンプラブツァ峠(5780m)から撮影.この時と既存の調査結果と比較することで,周辺の氷河が1991年~2005年に年間約8mの速度で後退していたことがわかった.

写真2 ネパール東部ホング谷のメラ氷河のラテラルモレーンと氷河湖
中央に氷河遮断型の湖が写る.メラ氷河の左岸側ラテラルモレーンによって写真中央手前の谷がブロックされて形成された.湖の直径は約100m.2005年10月に北緯27°44'36,東経86°55'45.標高4800mにて撮影.

写真3 チベット側から見たエベレストとロンブク氷河の氷河湖
厚さ数十cm程度の岩屑に被覆されたロンブク氷河が写真右奥から左手前に延び,その上に表面収縮型の氷河湖(Supra glacial lakes)が載る.右奥に旗雲をともなったエベレストが写る.2008年11月にロンブク氷河左岸ラテラルモレーン標高5240m付近から撮影.

写真4 ケニア山の山頂直下にできたルイス氷河湖
ルイス氷河(写真右)がかつて拡大していた頃に岩盤を侵食してできた氷食湖.湖の長径は約70m.写真左下の矢印部分が湖の堤体部分(モレーンではなくて岩盤であることに注目).2007年1月6日撮影.

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